田舎特集3 第3回 熊野古道 - 小辺路のこと
足を痛めたわけ

「小辺路のこと」も第3回に入って、熊野古道の切り口の、深くて、悩ましいものであることが、おぼろげながら分かってきたような気がいたします。 (いや、楽観的すぎるかも) 日本一広い村と言われる上に、歴史の長さ、深さも尋常ではありませんでした。
第一日目、「伯母子岳」を少し下がった山小屋で早めの昼食を取った私と「語り部」さんは、木立が深くて山の姿も見えない暗い山道を4.50分なだらかに下りますと、急に下り道が階段になり、それが登りになったり、細い道が谷側に傾斜してはっとするような、危険を感じることが、再々です。 少し下った台地のような「上西家跡」につきますと、石垣が残っていて杉の古木の中にベンチが人待ち顔においてある。 ここが、昭和の初め頃まであった茶店兼旅籠であったところだそうです。
わたしが何故、膝をいため、滑ったり転んだりしたのかは、次の「参詣道マップ」を見て頂ければお分かりと思いますが、山道の下りは危険なことと、この古道をもっと研究し、充分準備することを怠っていたせいだと思いました。 山歩き、谷歩きは怖く辛い。 30年前に「北山村」から谷歩き、尾根歩きに挑戦して、「奥瀞八丁」に下ったときの、孤独と辛さの経験が蘇ったのです。
- 「崖くずれで通れない時は迂回路の急坂を登る」
- 「道幅が狭くて、左が崖の道」
- 「尾根の急坂を登る」「尾根の急坂を下る」
- 「急な下り坂」「つづら折れの下り坂」
特筆したいのは、「明治22年頃から現在まで使われていた道です」というのがあり、「語り部」さんが教えて下さったのは、明治22年の十津川大豪雨の山崩れの一つであったそうで、「ウシロダニアト」といい、崩れた山の下を見ると尾根だけが半分残っていて、その下は木の根のみが絡まって、山半分の状態なのです。 この大洪水は、各所で起こり、十津川村は、死者168人、全壊家屋600戸以上、この災害後、2667人の人達が北海道へ移住し新しい「十津川村」をつくられた(人口7900人余)といわております。
十津川教育委員会発行の「十津川巡り」には、その痛ましい明治大水害の発跡地に記念碑があり、(小辺路よりは下流にあたる)、「森秀太郎氏」が北海道新十津川に移住した顛末が書かれている。 又、森秀太郎とその末子、森巌氏により編集された「十津川移民」が貴重な民俗資料として残されている。
神納川の「伯母子岳」山麓榎谷に建立された「郡中生遭難碑」も痛ましい事故の記録である。
昭和5年早春、郡山中学の山岳部が、春休みを利用して「野迫川村立里荒神」より「伯母子岳」を越えて「十津川村上野地」を経て大塔村辻堂に至る縦走旅行を計画。
途中「伯母子岳」中腹で道に迷い、30p以上の前日の積雪と、当日の降雨のため凍傷と疲労により、引率の教師・生徒2名が凍死するという痛ましい惨事になったのである。
野迫川村も明治の大水害には遭われており、この水害の足あとは広範囲に渡っていますが、「伯母子岳」の北と南と言いますか、周辺と言いますか、小辺路の中間地点には、何か不思議な渦のような物が、渦巻いているのではないかと思われて仕方がないのですが―
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